An Opinion about Problems of Computer Games and the Future of Computer Games

【展望論文】

コンピューターゲームの問題点とこれからの方向性について

1993 渡辺浩崇

初出・芝浦伝説24号P57〜P62


T.問題点

現在のところ、コンピューターゲームの一番の問題点は、意味がないということではないでしょうか。

例えばテトリスですが、確かに面白く、一度始めたらなかなかやめられない中毒性と快感がありました。しかしやめた後に、一体私は何でこんなことに何時間も費やしてしまったんだろうという一種の虚脱感、トホホ感といったものが押し寄せてきます。誰でもこんな経験はあるでしょう。

ゲームが無意味であるということを分析してみると、そこに三つの問題があると考えられます。

つまり、何で俺が他人のデッチあげたルールに従わなくちゃいけないんだという感覚です。これが第一の問題です。もう一つは、ゲームの世界が閉じているということです。絵空事なのです。架空の世界で架空の出来事が起きて架空の人物が架空に解決してハッピーエンド。いったいそれが何なんだ。この俺に何の関わりがあるんだ!これが第二の問題です。ゲームが終わった後、ああ楽しかったと思うのはいいのですが、それだけで他に何も残らないのです。ただ楽しいだけ。これも問題です(第三の問題)。この三つの問題は複雑に絡み合っています。これらの問題が原因になってあのゲームの後の虚しさが生まれるのだろうと私は考えます。

ではどうしたらいいのか。まず第一の問題から。ゲームというのはルールでできていて(この場合操作性などのインターフェイスも含む)、そのルールは誰かが考えて作ったものです。つまり自然法則や経済の変動のように自然にできたルールではありません。だから「何で俺がそんなルールにつき合わなくちゃなんねーんだ」と言われればそれまでなのですが、このルールにも質の違いがあります。人がゲームをやる目的は人によって多少違うかも知れませんが、たいがいは快感を得るためです。では逆にゲームを作る人は何が目的で作るのか。これも人によって違うでしょうが、ゲームシステムをデザインする段階に来れば、自分が想定している感覚(そのゲームをやったときの感触)を表現するためと言えます。作り手は、これは面白いだろうという感覚を自分の経験や思索の中からデザインし、それを表現しようとします。そしてそれを表現するためにゲームの形にする(ゲームシステムを作る)のですが、ゲームというのはさっきも書いた通り決まりごと(ルール)の塊です。しかしこの場合のルールは作者がデザインした感触を表現するために一番効率が良いように作られたルールなのです。従ってそこには一種の必然性があります。プレイヤーは快感(つまりは作者がデザインした感触)を得ようとしてゲームをやるわけですから、その快感を作り出すために決められたルールにはとくに抵抗を感じないわけです。これは良いルール(ゲームシステム)と言えます。また、良いデザインのゲームは、そのルールが我々の生理的・文化的約束ごとをうまく利用して作られており、プレイヤーが理解し易いようになっています。まあこの辺は技術の部分ですが。

では逆に、悪いルールとはどういうものでしょうか。まず、あるゲームがヒットしていたとします。すると別のメーカーがそれと似たものを出せば売れると考え、ヒットしているゲームを真似たゲームを作ります。このときにそのメーカーは大本との差別化を計ろうとして、わざとゲームシステム(ルール)を少し変更したりします。こうして悪いルールが生み出されます。なぜ悪いのかというと、その変更にはそう変えなければならない必然性がないからです。つまり「ゲームシステムを多少変えること」自体に意味があるのであって、どう変えるのかは問題ではないのです。するとルールに作り手の恣意が介在してきます。これにはプレイヤーはついてきません。そのルールは大本のゲームが出そうとして感触の邪魔をするかも知れないし(大抵そうなります)、何しろどう変わっても構わなかったわけですからプレイヤーにここは何でこうならないんだと突っ込まれる隙を与える事になります。また、もう一つには、今〇〇がブームだから〇〇ゲームを作れ(〇〇はスポーツの名前)との指令で作られたケースに多い事例です。この場合、たまたまそのスポーツが好きな人が開発陣にいれば良いのですが、そうでないと、このスポーツのこの部分を味わわせたい、この部分を見せたいといったゲームのメインとなる感触がないままにゲームが作られてしまいます。こうなると前述の場合と同じように、気持ち良さの前にルールがきてしまい、形だけは確かにそのスポーツだが実際にやってみるとなんともつまらないものになってしまいます。まあそこを何とかするのがプロなのかも知れませんが。

これがルールの質の違いです。良い方のルールならばプレイヤーはそれほど違和感を感じないし、むしろ積極的にそのルールに従おうという気になるでしょう(ただ、そうとばかりは言えない部分もかなりあるのでこれはまた別に書きます)。しかし良いルールを作るためには、作り手に土台の部分からゲームを作ることを要求します。

第二の問題に移ります。これはかなり難しい問題です。というのも、実際、我々の世界と関係ないようで実は関係があったり、一見して関係がありそうで実は関係がなかったりするものがあるからです(これはゲームに限らない)。ゲームが閉じているというのはつまり、その中で行われていることが全てその中で完結してしまい、外への広がりを持っていない。外へ流通するものを持っていないということです。しかしこのことは、ほとんどの人がうすうす(あるいはハッキリと)気付いているのではないでしょうか。というのも、それを打破しようという形跡が、太古のゲームから見られるからです。いちばん簡単なのが、ハイスコアやスコアのランキングの表示です。これは、他人との競争のために存在する機能です。また最近の格闘ゲームブームも、通信機能による人対人の戦いによって盛り上がってきました。これは、ゲームの世界からもう一歩広がった世界への指向の現れと見ることができます。しかしこのことは逆に、そのゲームをやる人とやらない人という分極化を生み出してもいます。時間が経てば経つほど両者の格差は大きくなり、すぐに新参者には手の届かないレベルで勝負が行われるようになります。そしてそれに拍車をかけるようにメーカーは上級者向けの高度になったものを出荷します。ですから大きな視点で見ると、やはりこの状況もゲームの世界だけで閉じていると言えるでしょう。一歩引いて考えれば、これで勝負しなければならない必然的理由など何もないのです。これと同じことがスポーツについても言えますが、スポーツの場合、ルール自体には意味がないのですが、それをやることを通して体力や人間関係などの現実世界に流通するものを得られるので、一般的に意味があるということになっています。また、スポーツを観戦する場合でも、ルール自体には意味がないので、その裏舞台を含めた一種の物語として楽しんでいるわけです(これは、スポーツ中継には解説がつきものである事からも明白です)。

では直感的要素の大きいアクションゲームではなく、一つの物語として成り立っているRPGの場合はどうでしょうか。私の知る限りでは、これも開いているとは言えないようです。思想・テーマといったメッセージ性がないものが多いのです。ファンタジーという表面的な形式や世界設定に固執しすぎているせいかも知れません。古典的な神話や物語の世界というのは心象風景なのであって、あれを額面通り受け取っては意味がありません。人間が生まれ、成長し、やがて大人になって結婚し、子供を育て、歳老いて死んでゆくといった循環や、善と悪、神と悪魔との対立といったモチーフを扱っています。ゲームになる英雄物語の構造としては、ある年齢に達した主人公が何らかの理由で今までいた場所から切り放され、さまざまな障害(通過儀礼)を乗り越えて成長し、事態を解決し、やがて日常(この日常は始めと同じ与えられた日常ではなく、自分の手で作り出した日常)に戻ってゆく。というふうになっています。これは、「子供から大人へ」ということを象徴的に表したものでしょう。ドラクエは当初からこういった物語世界をうまくゲームに取り入れて、人々が親しみやすい世界の構築に成功しています。しかしそればっかりというのも何ですし、単にその物語の中だけで完結してしまう類のドラマの方が多いのです。

ではゲーム世界を閉じていないものにするにはどうしたら良いのでしょうか。それにはやはり現代の我々の世界、生活に通じるような要素が必要なのではないのでしょうか。以前「GAMEぴあ」に映画や小説、演劇や美術などには現代性、つまり「いま」が問われるのにゲームだけはそれを問われることがない。というようなことが書いてありましたが、確かにその通りだと私も思います。ある表現したい状況があるとしたら、その状況を生み出すシステムそのもの(といってもデフォルメが入りますが)を自然な形でゲームにとけ込ませることが出来るのではないかと思うのです。

では次に第三の問題、ゲームは楽しいだけで意味がないということですが、これは大変難しい問題であり、私自身まだ答を見つけることができていないのですが、とりあえず今考えていることを書こうと思います。

なぜコンピューターゲームに意味がないのか。それはやはり、前述した「ゲーム世界の閉鎖性」に一つの原因があると思います。ではそれさえ解決すれば良いのでしょうか。また、架空世界を舞台にしたものはすべて無意味なのでしょうか。

そうではないと私は思います。コンピュータゲームに意味がないと感じるのは、そこに制作者の何らかの意図を感じないからではないでしょうか。作者がそれを通して伝えようとしているメッセージ、あるいはそれをつくった意図、そういったものを読み取る事ができれば、少なくとも無意味だとは感じないのではないでしょうか。といっても、これは何もゲームで説教してくれと言っているのではありません。ゲームは他のメディアと違って双方向性があるので、一方的な意見や理念の押しつけには他のメディア以上に敏感です。しかもそれがごく一般的な道徳的お説教だとしたら誰も見向きもしないでしょう。そうではなく、その作り手固有のものが反映されていて、しかもそれが作品の中にうまく溶け込んでおり、ゲームをやることによって自然にそれを感じ取ることができるようなものである必要があります(ただそれ以前にゲームとして面白くなければなりませんが)。

メッセージといっても社会に対しての文字通りメッセージだけがメッセージではありません。既にこの世界に生きる作者自身が一つのメッセージであるとも言えるからです。このメッセージを情報という言葉に置き換えると分かり易いと思います。誰かが発した情報を別の人が真似をしてまた発したとしても情報量は増えていません。よってこの真似をした人のやった事は無意味であるということになります。つまり、作り手は情報量(何メガとかの容量の事ではない)の豊富なもの、つまりオリジナリティのあるものを作り、プレイヤーはゲームを作者や社会とのインタラクションで見ることでこの問題は一応の解決がつくのではないかということです。しかしこんな事をプレイヤーに強要する事はできません。また、ゲームは何十時間もやるものだし、値段も高い。それに双方向性があるだけに受け手がそれに費やす労力も他のメディアに比べて大きい。果たしてこのような見方をする事によって得られる情報量でその労力に見合うのかという問題もあります。やはり、現実と関わる要素を入れてゆく必要があるでしょう。

ただ現実にはゲームを作って売る事が一つの産業として動いています。だから企業から見れば、いかに利益を得るかという原理でゲームを量産しなければならないのでこういうものを商売として作るのは難しいと言えるのですが、こういうものしか買ってまでやりたいとは思わないので何とかこういうものを作ってゆくしかありません。が、いざその場に立ってみたときにどうなることやら。

U.これからの方向性

ではこれからの方向性について考えてみましょう。以上に見てきた問題点を解消し、さらに面白いものを作るにはどうしたら良いのか。また、ゲームでしかできないことは何か。私が現在考えていることを書きます。

私が考えたのは、やはり現実世界の一面(一部の情報や構造など)ゲームシステムに取り入れて、ゲーム世界に広がりを持たせるということです。ではどのようにしてそれを実現するのか。いろいろアプローチの方法はあると思いますが、私の場合、現実世界の何か妙に機械的な部分を一つのシステムとして再構成し、それをゲームシステムに組み込むということを考えました。そしてこれは、笑いの要素をも含んでいます。本来機械ではないものが機械的に動いている姿は、どこかパラノイアックで、シュールな笑いを引き起こすからです。例を挙げてみましょう。この世の中では(といっても先進国だけですが)、そこにいる人間が人間らしく生きるために必要な物の量以上の物が動いています。だから皆、物を作って売るのに必死です。町を歩いていると、10mごとにティッシュを渡される。怪しいキャッチセールス人に声をかけられる。あなたの健康と幸せを祈らせろと人間が寄ってくる。エスカレーターの乗り口の前では英会話のパンフを持って興味ありませんかとしゃべる人間がいる。建物の全てに広告が書いてある。壁にも書いてある。電車の中は見渡す限り広告でできている。いい加減疲れたからといって家でじっとしていると、テレビからはコマーシャルが流れてくるし例えコマーシャルが流れていなくてもその番組の存在自体がコマーシャルだし、テレビを消しても新聞の勧誘。訪問販売人の訪問。聖書について勉強してみませんか。やはり機械的。しかしそんなことを言ってはいられません。生活がかかっているのだからいらない物をどんどん作って流通させて消費して人は生きなければなりません。例が卑近かも知れませんが、送り手が実感していることでないとテーマになりません。反核とか世界平和とか環境保護とか科学文明批判といったものですとテーマのためのテーマみたいになってしまっているものが多いのです。

ここで、私が以前考えたゲームの企画を紹介します(聞きたくなくても教えます)。どういうゲームかというと、都市が舞台になっていて、道路では人が行き交っています。そこを歩いている人を引きとめて話をしたり、戦ったり、物を売りつけて金を稼いだりということがメインです。逆にセールスマンにつかまって物を売りつけられたり、チンピラに喧嘩を売られたり、宗教の勧誘員に勧誘されたりもします。無意識値というパラメーターがあってそれが欲望の方に傾きすぎるとセールスを断りきれなくなって強制的に物を買わされてしまい、狂気に傾きすぎると宗教に入信させられてしまいます。この無意識値はセールスや勧誘はもちろん、道を歩いていて看板を見たりテレビを見たりすることでも変動してしまいます。この変動を抑える働きをするのが知恵のパラメーターです。知恵は本を読んだり様々な人々とのやりとりをうまく切り抜けることによってアップします。その他、自分でトレーニングをして体を鍛えたり、道具や装備品に複数の使い方をする事が可能(たとえばストッキングという道具はかぶることもできるし履くこともできる)であったりと様々な新システムを用意しました。主人公はある朝突然正義のヒーローになっていた平凡なサラリーマンで、はっきりしない悪の組織と戦うというストーリーでした。タイトルは「変身」。私は任天堂ゲームフォーラムでこの企画を発表したのですが、結果はボツでした。今考えると、これこそまさに無意味という気がしますが、ボツになった理由の中にこれはマニア向けではないかというコメントがありました。確かに、ヲタク向けではないと思いますが一般向けでもないでしょう(それをマニア向けだと言っていたのでしょう)。しかし、「真・女神転生」などが結構売れていることを考えれば、ゲームとしてしっかりしていればこういったものも可能ではないかと思うのです。これについては今後とも考えていくつもりです。

さて、私が考えているもう一つの方向性は「コンピューターによるお笑い」です。それも「コンピューターによるお笑いの自動創出」というものです。まあこれは私の単なる趣向といいますか、実験という感じなのですが。

コンピューターメディアの利点としてよく言及されるのが対話性(インタラクティヴ)ですが、私はその他に、色々な事を自動的にやってくれるということが挙げられると思います。そしてコンピューターサイエンスの代表的分野といえばAI(人工知能)ですが、これ(ここでは特に記号主義のAI)に対する批判にこういうものがあります。「人間とは世界の中に投げ込まれた存在であり、それ故に人間は外界のものを自分との関わりで見る。つまり何らかの欲望の対象として認知する。しかしコンピューターはそうではない。AIでは人間が知覚した表象(つまり記号)をあたかも客観的存在のように扱い、その記号の形式的操作によって人間の持つ能力を模倣しようとしているが、そんなことで人間のまねごとができるなんて大マチガイだ」というものです(西洋では技術によって神の真似をしようとする様に見えるものには根強い反感があるようです)。これを言い替えれば、人間は自分の原体験がまずあってそこから記号を作り出したり操作したりするが、コンピューターは単に与えられた記号を形式の上で操作するだけなので人間のマネは無理。ということになります。しかし、そのことは学問的には障害になるかも知れませんが、お笑いをやるには利点になります。人間は原体験があるばっかりに、ある文脈(あるいは物語や世界)に一度乗っかると、その中に認識の態度や方向性を全て絡み取られてしまうのです。ところがコンピューターは単に形式的に記号を操作するだけなので、文脈なんぞは全く関係無しに、与えられた規則に従って答を出してくれます。こうして出てきた答は人間側からみると、どこかヘンです。ここで認識のズレが起こり、認識のズレは笑いを生み出します。形式的にもしっかりしていて、いかにも深い意味がありそうで実は何の意味もない。そういったものを、正確さと高度技術の塊の様なイメージのあるコンピューターが作り出すのだからお笑いとしか言えないでしょう。この好例として「ラクター」という会話ソフトがあります。このソフトはコンピューター上に作られた仮想の人格「ラクター」と自然言語(アメリカ製なので英語)で会話ができるというものです。こいつがなかなかの狂人で、詩まで作ります。その中のいくつかを紹介しましょう。

  樹木や草は成長して花が開く。オレはいつも同じままだ。
  しかし、オレは頭がいい。

  死者の間を滑り、転がり、落ちてみるがいい。
  そこかしこに、家庭用品が見つかるだろう。

  顔を切れ。顔面を切り裂け。容貌を作り変えて、天と地をブレンドするのだ。
  されば、小人たちが落下してくる。

  (青山南訳)BNN「人工無能」より引用

なかなか深い詩です。シュールで、狂気に満ちていて、しかも意味がない。この詩が載っていた本には、この他にも人間との会話の模様なども載っているのですが、私は中学の時にこれを読んで感動し、ああ私もこういう人になりたいと思ったほどでした。このように私はコンピューターを使うことによって、人間には真似の出来ない、より深いバカを創り出す事ができるのではないかと思うのです。そういうわけで、これに関しても何か作ろうと思って色々やっているのですが、まだ成功したものはありません。

以上、私の考えを述べてきました。これには人それぞれの方向性というか考えがあると思います。しかし、ゲームの無意味感を何とかしようという問題意識を持つ人は他にも多くいるようです(その無意味さ故に離れていった人もいましたが)。例えば、宮本茂氏のやり方や言葉をみていると、この人はゲームを一つのツール、遊ぶためのツールの様なものにしていこうとする方向性が感じられます。作り手の介在を感じさせないような生理的に納得のいくルールでゲームを構成し、快感を感じさせる要素も多数詰め込む。後はプレイヤー自身が自分なりの楽しみ方や意味を考えて遊んでくれればいいという考え方です。

長くなりましたが、まとめとしては、まあいろいろやってゆくしかないだろうということでしょうか。でもこういった事はもっと議論されてもいいのではないかと思います。

最後は「パックランドでつかまえて」からのこの言葉でしめさせていただこう。

  「テレビゲームの未来に乾杯!」

と書こうとして「かんぱい」を漢字変換したらいきなり「完敗」と出た。うーん、不吉な…‥


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 日本偽現実工学会会報 [The Bulletin of Japanese Fake Reality Engineering Society]
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