Review [Barcord-Battler]

【評論】

バーコードバトラー(1991)

1996 高沢秀人


「バーコードバトラー」とは、1991年に株式会社エポック社から発売され、小学生の間で大ブームを巻き起こしたLSIゲームマシンである。

簡単に説明すると、このゲームは、どこにでもある普通のバーコードをバトラー(戦士)に見立て、互いに戦わせるというものである。このマシンはバーコードリーダーを内蔵しており、このマシンにバーコードを読み込ませると、そのバーコードの生命力・攻撃力・守備力といった、ゲーム上のパラメーターが決まる。このパラメーターに基づいて、マシンについている液晶画面上でバーコード同士を戦わせることになる。このゲームでの戦闘のプロセスは単純きわまりない。ロールプレイングゲームでの「戦闘」のプロセスを、最もシンプルな形で表現したものである。相手と自分が交互に攻撃を繰り返す。攻撃を受けた側は、受けたダメージの分だけ生命力が減り、最終的に生命力がなくなった方が負けというものである。「会心の一撃」や「攻撃をかわす」といった不確定要素があるにせよ、やはり戦闘システムそのものは、現在の一般的なコンピューターロールプレイングゲームのものよりもはるかに単純である。

ではなぜ、このゲームがあんなにも小学生を熱中させ、ブームを巻き起こすまでになったのだろうか? 結論から言うと、このゲームの本質は、戦闘の駆け引きにあるのではなく、強いバーコードを探す過程そのものにあったということである。

通常、ゲームというものは、ある一定のルールで区切られた世界の中だけで進められ、それが終わったら、その世界から出てゆくものである。それがゲームというものの面白さであり、同時に限界でもある。結局、そこではルール以上のものは出てこない。その世界がルール以上には広がってゆかないのである。

しかし、バーコードバトラーは少々違う。バーコードは現在、流通システムの情報化、つまりPOSシステムの普及によって社会の至るところに氾濫している。子供たちは、強いバーコードを求めて、家の中そして町の中をさまよい歩く。それまで、何の意味もない無味乾燥な単なる縞模様に過ぎなかったものが、とたんに輝きを放つ宝の山に見えてくるのだ。まさにゴールドラッシュみたいなものである。

ここに起こっているのは、現実の一部がゲームの中に取り入れられ、読み替えられて、ゲームの一部となっている光景である。ゲームの仮想空間の中を、架空のキャラクターを連れて十字キーでさまようよりも、町の中を、同じ物語を共有した友達と連れ立ってさまよう方がずっと楽しいであろう。ゲームのような、あらかじめ入念にプログラムされた予定調和の世界ではなく、様々なことが起こりうるし、吸収できるものもはるかに大きいのである。その情報量の差といったら、まったく比べ物にならない。

バーコードバトラーの方が数年かけて作られたRPGなどよりも、複雑で奥深いゲーム性を創り出しているのである。このあたりの複雑さなどは、やはり、現実の持つ膨大な情報量の一部をうまく取り入れていることから生まれるのであろう。ゲームが現実を自らの中に取り入れ、巻き込んでしまった瞬間である。このダイナミズムがなんとも凄い。

そして、少年雑誌での記事展開や、大会の開催といったイベント的な要素も、ゲームの世界を時間・空間の両面で広げるのに一役買った。普通なら、すぐにさめてしまうはずのゲーム熱が、雑誌記事の展開によって持続される。大会の開催は、自分たちと同じ物語(ゲーム)を共有している人間の多さを実感させ、より一層その世界を追求して行こうという意欲を湧かせる。そして、3人一組でチームを作るという大会の規定は、ゲーム以外の部分で、その大会をより面白くしている。さらに言えば、その大会とは、子供たちにとって、勉強やスポーツ以外での活躍の場ともなりうるのものでもある。

町がどんどん開発されてゆき、身の回りから遊ぶための非日常的な空間が消え、のっぺりとしたコンクリート一色でかためられてゆく現実。学校以外の時間も、塾や習い事といった制度化された平坦な時間でかためられてゆく現実。そんな息苦しい現実の中で生きる現代の子供たち。

情報化によって複雑化した社会の中にエアポケットを作り出し、遊びに転化する。そんな遊びを作ってゆくことは、偽現実工学の一つの使命であると私は考える。


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 日本偽現実工学会会報 [The Bulletin of Japanese Fake Reality Engineering Society]
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