Review [Tactics Oge]

【評論】

タクティクス・オウガ(1995)

1996 渡辺浩崇


■ はじめに

「タクティクス・オウガ」は、1995年10月、株式会社クエストから発売されたスーパーファミコン用シミュレーションRPGである。
このゲームに対しての私の最初の印象は、ずいぶん難しくて、少し意地悪なゲームだなというものであった。それでも第一章まで終わらせると、ゲームをうまく進めてゆくコツがつかめてきて、ストーリー的にもかなりシリアスなものだということが分かり、期待が持てた。
そして、続く第二章のタイトルを見て、私はシビレてしまった。

CHAPTER2 思い通りにいかないのが世の中なんて、割り切りたくないから

ゲームで語られる物語が、やっとここまで来たのだ。神話的・民話的な普遍的物語ではなく、マニア向け同人誌的物語でもない、真に訴えかけてくるメッセージを含んだリアルな物語が、とうとうゲームにも現れたのである。しかもそれは、ゲームという形式にうまく溶け込んでいた。否、ゲームにすることによって、そのメッセージがより実感を伴って伝わってくるように作られていたのだ。
では、そのメッセージとは何か。また、それを伝えるための仕組みとはどういうものか。そして、このゲームはゲーム史の中でどのような存在となるものなのか。それを、この小論で明らかにしてゆきたいと思う。
全体の構成としては、まずゲームシステムの概略・特徴を簡単に述べる。次に、シナリオの概略と、その言わんとするところを解読してみる。そして次に、そのシナリオとシステムがどう結びついて一つのメッセージを体現しているかということを説明する。最後に、このゲームの意義とこれからの課題について述べ、この小論のまとめとする。

■ ゲームシステム

このゲームのシステム面での特徴を挙げると、ざっと以下のようになる。

  @ウェイトターン制と呼ばれるターン転換システムの採用
  Aトレーニングモードの存在
  B忠誠度のパラメーターによるパーティー内キャラクターの離反
  C転職システムによるキャラクターの育成
  D選択肢によって物語の展開が変化するマルチシナリオシステム
  Eチュートリアル&ヘルプモードの充実
  Fウォーレンレポートと名付けられた、ゲーム内データベース閲覧システム

@のウェイトターン制というのは、キャラクターごとに設定された「素早さ」のパラメーターが、登場キャラクター間で相対的に比較され、コマンド入力の順番が決まるシステムのことである。
従来、シミュレーションゲームのターン制度といえば、自分が一通りの駒を動かした後に、相手の順番に交代するというものであった。これに比べ、ウェイトターン制は、自分側のキャラクターと相手側のキャラクターが、入り乱れて戦うことになるので、戦略性・緊張感のどちらも高くなっている。今までにあまり例がないシステムなので、とっつきにくい部分もあるが、Eの充実したチュートリアル&ヘルプモードの搭載により、それを十分に補っている。
このゲームは、攻撃主体と攻撃対象を結ぶ線上に味方が存在した場合、攻撃はその味方に当たるし、魔法の攻撃範囲に敵と一緒に味方がいた場合にも、その味方が巻き添えを食うようになっている。システムとしてはリアルだといえるが、同時に非常に厳しいものである。また、敵の思考ルーチンも容赦がなく、体力や防御力が最も低いキャラクターを複数人で狙い撃ちしてくる。これも、合理的だが非常にシビアである。要するに難易度は高いのである。
しかし、このゲームには、Aで挙げたトレーニングモードというものが存在する。これは、敵との戦闘に先立って、味方同士で模擬の戦闘を行い、レベルを上げておくことができるというシステムである。このシステムの採用により、難しい局面は、戦闘の前にトレーニングを行って、事前にレベルを大幅に上げ、力技でクリアするという手が使えるようになった。戦略・戦術を考えるのが苦手な人でも、RPG感覚でプレイできるようになっているのである。このシステムは純粋なシミュレーションゲームとして見れば反則的とも言える手段ではあるが、遊ぶユーザーの層を広げているのは事実である。
このゲームは、戦闘シーンと物語シーンが交互に繰り返し行われて進行する。そして、物語の進行の途中、ところどころ、主人公のとる言動を選ぶ選択肢が現れる。その選択肢の中でどれを選ぶかによってストーリーの流れが変化することがある。これがDのマルチシナリオシステムである。また、どの選択肢を選んでも物語の展開自体は変わらないこともある。このときに、その選択によって変化しているのは、自軍の兵の主人公に対する忠誠度である。忠誠度は自軍のキャラクターの一人一人に別々に用意されている。通常、忠誠度が低くても、そのキャラクターが戦死するときに恨みがましい捨てゼリフを吐かれるだけだが、度を越えて低下すると、そのキャラクターは主人公の軍から離反していってしまう。忠誠度は、そのキャラクターの持つ個人的背景に反した行動を主人公が取った場合、大幅に低下する。例えば、肉親をある組織に殺されたキャラクターは、主人公がその組織に与するような行動を取ると離反してしまう。
このような個人的背景が設定されているのは、物語上重要なキャラクターだけだが、そういうキャラクターは能力も高めに設定されており、いなくなられるとかなりの損失がある。また、このように特別な背景が設定されていない一般的なキャラクターでも、主人公の言動が首尾一貫していないと、不信感が高まり、忠誠度は低下する。つまり、このゲームでは、主人公の言動や生き方が首尾一貫していることが重要なのである。このことは、後述するこの物語のテーマ性とも深く関わってくる。


■ ゲームシナリオ

古来から海洋貿易の中継地として栄えたヴァレリア島は、その覇権をめぐって民族間の争いが絶えない土地であった。覇王ドルガルアによって一時は平定され、民族融和政策によって統一化が進んだが、ドルガルアの死と後継者の不在によって、再び島の覇権をめぐって争いが起こる。三つの民族の対立。それが主人公たちの活躍によって再び統一されるまでの過程を、その対立につけこんでやって来る外部勢力との闘争や、覇王ドルガルアの遺産の謎を交えて描いている。主人公は、民族対立の結果、最も悲惨な状況に追い込まれている少数民族ウォルスタ人の少年で、その状況を打開するために友人や姉と共にレジスタンス活動を開始する。その過程で外国からの放浪者の一行と知り合い、彼らの助けを借りて、幽閉されている自民族の指導者を救い出し、次第にその活動を広げてゆく。というのがこの物語のさわりの部分である。
そして第一章の終わりに、最初の重大な選択肢が現れる。指導者ロンウェー公爵を救い出したとはいえ、主人公のウォルスタ軍は頭数が少ない。島の人口の7割を占める多数派民族のガルガスタンと戦うには、ウォルスタ人全体の強い団結が必要である。しかし、ウォルスタ人の中には、すでに戦いをあきらめ、ガルガスタンの用意した猫の額ほどの自治区で悲惨ではあるが命の危険はない暮らしに甘んずるものも多くなっていた。そこでロンウェーは、自治区にいる者をガルガスタンの仕業と見せかけて虐殺することで、敵に対する怒りを誘発し、自治区の安全性に懐疑を抱かせ、全ウォルスタ人を反ガルガスタンの方向でまとめあげようと画策する。そして、その虐殺の任務を主人公に課してくるのである。ここで、この命令に対してどういう行動を取るかを決めることになる。そして、どういう行動を取るかで、この後の展開が大きく変わる。
理想の実現のためには、あえて自らの手を汚すこともするという現実主義路線に進むか、手段を選ばぬ冷酷なやり方を拒絶し、理想実現のための別の道を探す理想主義路線に進むか。さらに、ここで理想主義路線を選ぶと、裏切り者としてウォルスタ軍から追われることになるが、第2章の終わりで元の軍に戻るか戻らないかを選択する場面が現れる。ここで、軍に戻ると中道路線(日和見路線)でゲームが進む。大きく分けてこれら3つの道があり、それぞれの道で島の統一のために戦うこととなる。
このストーリーの根底には、「真の自由とは何か」という問いかけがあると思う。ここでは「言動の一貫性」というものと「どういうところでリスクを負うか」というものが特別に重視されているからだ。
「言動の一貫性」があるかどうかということは、周囲の状況に容易に流されないその人間固有の意志があるかどうかということである。「どういうところでリスクを負うか」ということは、その意志に従って行動するには必ずリスクが付きまとうということである。現実主義をとれば、現実的制約のもとで理想実現のための努力をしなくてはならない。自分の理想に反することでも最終的な理想実現のためにあえて行わなければならないこともある。理想主義路線をとれば、その理想を実現するための現実的な基盤を失い、その基盤づくりから始めなくてはならなくなる。しかも、あくまでその理想に反することはできない。
何かから自由であるということは、その何かから隔絶した固有の意志と、その意志に沿った行動を支える基盤というものを持っているということである。この物語で語られているのは、自由とは誰か他人や組織に与えてもらったり、保証してもらうようなものではなく、自らの手で作り出すものだということであり、そのためには、やはり強くなくてはならないということである。強くあれ、ということであろう。


■ シナリオとシステムのテーマ的統一

しかし、このメッセージ性は制作者がプレイヤーに押し付けたり、説教したりしているというものではない。それは、ゲームを進めてゆく過程で、まったく自然に実感できるようになっているのである。では、それはどのような仕組みで実現されているのであろうか。
まず第一に前にも述べたとおり、このゲームでは主人公の言動が首尾一貫していることが重要である。他のキャラクターの言葉や周囲の状況の変化に反射的に反応していたり、ただ流されているだけでは、兵は主人公についてこなくなる。プレイヤーはその事態を避けなければならず、自然と、物語の展開を把握し、自分の立場を明確にしてゆくように主人公を動かすことになる。
第二に、このゲームはマルチシナリオになっている。「ファイナルファンタジー」や「天外魔境」などのように、登場キャラクターの間でやり取りが勝手に行われているのを見ているだけではない。重要な局面では必ず選択肢が出現し、プレイヤーに選択を迫って来る。その選択次第では、物語の展開がかなり大幅に変わってくるのである。
第三に、世界設定にこそファンタジーの要素が入っているが、民族紛争という問題自体が現代という時代を反映したモチーフであり、それなりの重みをもっているということである。また、各キャラクターの性格とその背後にある個人史の設定も緻密で、納得のいくものになっている。その設定は、ストーリー上でうまく生かされているほかに、「ウォーレンレポート」というゲーム内データベースに蓄積され自由に閲覧でるようになっている。この部分も物語のリアリティの構築に一役買っている。
さらにリアリティという点で言えば、物語の重量感とともに、前述したゲームシステムのリアルさもゲーム全体のリアリティを支える大きな要素になっている。
総括的に言って、このゲームは、システムと物語が渾然一体となって一つのメッセージを表現しているといえるのである。ゲーム史上かつて、これ程までに、あるテーマのために物語とシステムという両面の統一を取り、うまく使いこなしている作品はなかった。
もちろん、「タクティクス・オウガ」はゲームとして非常によくできており、長く楽しく遊べるものになっている。大勢のキャラクターをさまざまな職業に転職させながら、自分の思い通りに育ててゆくという部分も面白いし、戦略性あふれ、多彩なアニメーションを見せてくれる戦闘シーンも面白い。さらには、自軍で育てて強くしたドラゴンを店で売ると、次の日にはその店にドラゴンの鱗でできた鎧や盾や兜が売られているといった、なんだか悲しくなるようなことが起こったり、99ステージもあるおまけダンジョンがあったり、なかなか出てこないアイテムや、特殊な方法でしか仲間にならないキャラクターがいたりと、その細部に至るまでの入念な作り込み具合と言ったら半端ではない。


■ ゲーム史における「タクティクス・オウガ」の位置

しかし、やはり、ゲーム史全体から見たときのこのゲームの革新性は、メッセージ性によるシナリオとシステムの融合にあると言える。この点が最も今後につながる可能性を感じさせる部分である。今まで、マルチシナリオ(つまりはインタラクティブ性)とメッセージ性というものは相容れないものであると考えられてきた。物語の作者というものは読者に何らかのメッセージを伝えようと物語を作る。メッセージを伝えるという目的のもとに物語のあらゆる要素を設計するのである。もちろん、主人公が、自分が取ることのできる行動の中から、あえてある行動を取るという部分にも作者はメッセージを込めるものである。作者はそれを読者に納得させるために、さまざまな脇役や、舞台設定や、エピソードを用意する。それを、見る者が自分の好きなように勝手に変えてしまうことができたとしたら、その物語は見る者の自己満足のための道具に成り下がり、何の意味もないものになってしまうであろう。
しかしこのゲームは、その制約を見事に打破している。分岐した分のシナリオ展開も含めて、一つの統一テーマに収束させているのである。要するに、同じテーマを語るにも、いくつかのアプローチがあるということだったのだ。このゲームは途中で分岐したシナリオも最後には一つにまとまるが、そうなっているのはすべて違った話を作るときの労力を考えてのことであり、本質的な問題ではない。すべて違った展開になるものを作ったとしても、統一したメッセージ性のもとに作ることができるであろう。さらに、ゲームでは、操作している実感によって、物語の情感をより高めることができるのである。
こうなると、その先にあるのは、メッセージ自体の問題である。今回のこのゲームの「自由」のテーマは、ゲームとしてはこのようなリアリティのあるものは初めてだが、映画や小説や漫画などでは繰り返し語られてきたテーマであり、さほど新しいものではない。
しかし、このようなゲームが現れたことは、今後、ゲームはテーマ性の部分でも大いに発展する可能性があるということである。現代社会の状況に対してあるメッセージを伝えようと、作品を構築し、物語を作り上げ、演出方法を考え、物や人間の描写の仕方を決定してゆく。そうやって、作品という一つの統一体を作り上げる。ゲームでそのような作り方をするのは、小説や映画の何倍も大変である。双方向性があるからだ。しかし、今後、それを行う者が必ず現れるであろう。
そうなったとき、ゲームはまた一歩、進化したと言えるのではないだろうか。


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